鹿児島海岸の景
天文館通り文華堂の発行 カラー化してみました。
これぞ昭和の日本 これ蔵戦前絵葉書コレクション
天文館通り文華堂の発行 カラー化してみました。
奥のビルは改修を繰り返し現在も健在している。大通りには路面電車の線路がまだ敷設されていない。
この絵葉書は、現在も鹿児島市天文館にて営業している画材店「集景堂」の前身が発行したもの。 以前、絵葉書が残っていないかお尋ねしたところ災害に見舞われた際に水没してしまったとのこと。 カラー化してみました。 左に見える土の道路は現在の国道10号線である。
我は海の子白波の。。。 『われは海の子(我は海の子)』は、1914年(大正3年)刊行の「尋常小学唱歌」第六学年用に掲載された文部省唱歌であるが、歌詞は鹿児島市出身の宮原晃一郎(1882-1945)の詩。鹿児島市の祇園之洲公園には歌碑が建てられている。
この場所は祇園之洲公園となっている。一体は埋め立てられ整備されている。公園の一角には鹿児島市出身の宮原晃一郎(1882-1945)の詩『われは海の子(我は海の子)』は、1914年(大正3年)刊行の「尋常小学唱歌」第六学年用に掲載された文部省唱歌で歌碑が建てられている。
鹿児島市加治屋町 wikipadia 西郷隆盛 西郷隆盛君は友達など親しみを込めた君(くん)ではないコトバンク
東郷平八郎は弘化4年(1848年)12月22日、加冶屋町二本松馬場の薩摩藩士の家に生まれた。本来の誕生地は県立鹿児島中央高等学校の敷地内にある。 銅像は鹿児島県鹿児島市清水町 多賀山公園の頂上に、錦江湾を睨むように建っている。 昭和32年岡山県郷土館から移設されたもの。
白雲悠々と空を流れ颯爽として海洋に浮かべる雄姿櫻島手前に広がる海は鹿児島湾(錦江湾)。右手前には桜島フェリー乗り場がある。この海には海上自衛隊の潜水艦が潜水しており、ときおり海面に現れる。
wikipadia多事多端なりし維新當時をそぞろに偲ぶ西南役諸士の墓
1946年(昭和21年)3月 – 校名から「造士館」を除き、「第七高等学校」に改称]。 1949年(昭和24年)5月31日 – 新制「鹿児島大学」の発足により、包括され「鹿児島大学第七高等学校」と改称。 1950年(昭和25年)3月31日 – 廃校。